酒呑み親父のよもやま噺

探求心旺盛な酒呑み親父の随想録

『硝子坂』高田みづえ

【今日の一枚】
『硝子坂』高田みづえ
1977年3月25日リリース(ユニオンレコード)

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高田みづえ」のデビューシングルである。
『硝子坂』は,、「島武実」が作詞し,「宇崎竜童」が作曲した楽曲で,1977年2月に発売された「木之内みどり」のアルバムのタイトル曲として発表された。

シングルとしてのリリースは,その1か月後,3月の「高田みづえ」のデビューシングルが最初である。

発売から1か月半でオリコントップ10入りを果たし,シングル売上は31万枚を突破した。「高田みづえ」の楽曲としては,「私はピアノ」に次ぐ2番目のヒット曲である。

高校生の頃のヒット曲である。
1976年,フジテレビのオーディション番組「君こそスターだ!」で,第18代グランドチャンピオンとなり,『硝子坂』でアイドル歌手としてデビューした「高田みづえ」は,私と同年齢ということもあり当時注目していた。何しろ,当時のアイドルの中では歌が上手かった。

『硝子坂』『だけど…』『ビードロ恋細工』『花しぐれ』と4曲連続でヒットを飛ばし,1977年には「第19回日本レコード大賞・新人賞」,「日本歌謡大賞・放送音楽新人賞」,「FNS歌謡祭・最優秀新人賞」などの新人賞を総なめにしたのである。

大関の大相撲力士で,現・二所ノ関親方の「若嶋津」と結婚したときには少々驚いたが,婚約を発表すると同時に,歌手活動を含めた芸能界引退を表明するしたことは残念だった。

2015年8月放送のNHK思い出のメロディー」で30年振りに復帰し,『硝子坂』と『私はピアノ』の2曲を歌唱披露した姿をテレビで観たが,やはり相変わらず歌は上手いと思った。

 

『夢は夜ひらく』三上寛

【今日の一枚】
『夢は夜ひらく』三上寛
1972年3月(日付不明)リリース(URC

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三上寛」の4枚目のシングルである。
1971年8月7日の昼間から,9日未明にかけて行われた「第3回全日本フォークジャンボリー」で,当時誰もが知っていた『夢は夜ひらく』のメロディーに乗せて,オリジナルの歌詞を披露したのが,「三上寛版」の『夢は夜ひらく』だったと言われている。

青森県津軽から,柳行季ひとつと三千円を握って上京した「三上寛」は,ここから日本で最もラジカルな唄を歌うフォークシンガーとして,本格的に歌手生活を歩み始めたのである。

この曲がリリースされた「URC」は,「アングラ・レコード・クラブ」の通称で,1969年1月に設立された会員制レコードクラブである。

「日本で最初のインディーズレーベル」と言われ,当時フォークシーンで盛んになっていた政治を批判する歌詞のプロテスタントソングや反戦歌,差別用語や卑猥な言葉等放送禁止用語が含まれる等歌詞に問題があったり,放送するに相応しくないと言う理由でメジャーで発売出来ない楽曲を自主制作で発売する為に設立されたものである。

リリース間もなくして,「三上寛版」の『夢は夜ひらく』は放送禁止となった。メロディーではなく,もちろん歌詞に問題があるとの判断であった。
確かに,レオードジャケットの絵も少々怪しい。

以上のような理由から,このレコードは現存する枚数が少ない。
大学生の頃,『夢は夜ひらく』のいろいろなバージョンを聞き比べしてみようと思い立ったのは,このレコードを手にしたことがきっかけだった。

私にとっては忘れられない思い出であると共に,大切に保管しておかなければならない珠玉の一枚となっている。

 

『夢は夜ひらく』緑川アコ

【今日の一枚】
『夢は夜ひらく』緑川アコ
1966年10月(日付不明)リリース(クラウンレコード

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「緑川アコ」のデビューシングルである。
1966年に「園まり」(ポリドール)の歌で発売し大ヒットとなった『夢は夜ひらく』だが,それに追随する形で各社からカバー盤が出された。

「緑川アコ」(クラウンレコード),「藤田功(曾根幸明)」(テイチク),「愛まち子」(テイチク),「梅宮辰夫」(コロムビア)「バーブ佐竹」(キングレコード)などである。

その中でも,「緑川アコ」版の『夢は夜ひらく』が,「園まり」のオリジナル版相手に健闘した一曲だと言われている。

作詞は「園まり版」が「中村泰士・富田清吾」の合作詞であるのに対し,「緑川アコ版」は「水島哲」が担当しており,歌詞は違ったものとなっている。

小学生の頃のヒット曲だが,このレコードは当時買ったものではない。
大学生の頃に,いろいろなバージョンの『夢は夜ひらく』を聞き比べしてみようと思い,記憶は定かではないが,大学のあった京都のレコード店古書店で入手したものである。

 

『夢は夜ひらく』園まり

【今日の一枚】
『夢は夜ひらく』園まり
1966年9月5日リリース(ポリドール)

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「園まり」の24枚目のシングルである。
『夢は夜ひらく』は,「曽根幸明」が作曲した日本の歌謡曲で,「園まり」が歌ったものと「藤圭子」が歌ったものが特に有名である。

藤圭子」版のタイトルは『圭子の夢は夜ひらく』となっていて,歌詞が「園まり」版とは多少違っている。

原曲は,「東京少年鑑別所」(練馬少年鑑別所)で歌われていた俗曲を採譜・補作し「曽根幸明」が自ら「藤原伸」という名義で歌った『ひとりぽっちの唄』(1966年・テイチクレコード・作詞「川上貞次」(曽根のペンネーム))であるといわれている。

『ひとりぽっちの唄』の歌詞・曲名を新たにつけかえたものを「園まり」がリリースしたのである。『夢は夜ひらく』というタイトルでの最初のリリースが「園まり版」であった。

その後多くの歌手にカバーされ,中でも1970年発売の『圭子の夢は夜ひらく』(「石坂まさを」作詞)は「藤圭子」の代表曲となった。1999年には「石坂まさを」の作詞家生活30周年を記念し,「藤圭子版」の歌碑が出身地である東京都新宿区の花園神社に建てられている。

『夢は夜ひらく』というタイトルで歌詞の異なる様々なバージョンがあり,「JASRAC」には20を超える作詞者による,異なるバージョンが登録されていると言われている。

歌詞だけ変えて,同じメロディーの曲をリリースされることはあるが,これほど多くのバージョンが存在している曲は,他に例を見ないのではないかと思われる。

 

『圭子の夢は夜ひらく』藤圭子

【今日の一枚】
『圭子の夢は夜ひらく』藤圭子
1970年4月25日リリース(日本ビクター)

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藤圭子」の3枚目のシングルである。
前作の『女のブルース』の後を受けて10週間連続オリコン1位にランクされた。
また,1位『圭子の夢は夜ひらく』・2位『女のブルース』と2週間にわたり1位・2位を「藤圭子」曲が独占した。

藤圭子」は,この曲で「第1回日本歌謡大賞」を受賞し,年末の「第21回NHK紅白歌合戦」に紅白初出場を果たした。

小学生の頃のヒット曲である。
高度経済成長という華やかな日本の発展の一方で,大学の学生運動が激化していく暗い世情を映し出すような歌詞が当時の若者の心を鷲掴みにした。

小学生の私には,歌詞の意味は細かく理解できなかったが,メロディーが難しい曲ではないので良く口遊んでいたように思う。

それにしてもこの曲を,当時二十歳そこそこの「藤圭子」が,ここまで歌い上げるのだから,彼女の歌唱力には脱帽するしかない。
個人的には,特に2番の歌詞が印象に残っている。

今でもこの曲を聴くと,ピクリとも表情を変えずに,遠い一点を見つめるようにして歌う「藤圭子」のテレビ映像が蘇ってくるようである。

『夢は夜ひらく』は後に,「八代亜紀」・「五木ひろし」・「美空ひばり」・「西田佐知子」など多くの歌手によりカバーされているが,やはり「藤圭子」のそれにかなう者はいないと思う。

 

『やさしさ紙芝居』水谷豊

【今日の一枚】
『やさしさ紙芝居』水谷豊
1980年7月21日リリース(フォーライフレコード)

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「水谷豊」の7枚目のシングルである。
この曲は,1980年7月から1981年3月にかけて放映された「熱中時代(教師編II)」の主題歌としてリリースされた。

大学生の頃のヒット曲である。
1978年10月から 1979年3月にかけて放映された「熱中時代(教師編Ⅰ)」は,大学受験勉強の最中ということもあって観ることができなかったが,「熱中時代(教師編II)」は,大学生になってからの放映であったため毎週欠かさず観ていた。

「熱中時代(教師編)」は,日本テレビ系列で放送された「若葉台小学校」を舞台にした学園ドラマである。当時社会問題になり始めていた教育現場でのさまざまな困難に,体当たりで熱中する教師「北野広大(水谷豊)」の姿が共感を呼び大ヒットした。

「水谷豊」が演じた教師「北野広大先生」は,同じ時期にヒットした「3年B組金八先生」の「武田鉄矢」が演じた「坂本金八先生」とはひと味違った魅力の持ち主で,甲乙付けがたいと思った記憶がある。

それにしても最近では,教育現場のスキャンダラスなニュースは時々放映されるが,「坂本金八先生」や「北野広大先生」のように,さまざまな困難に体当たりで熱中する教師はテレビに描かれなくなってしまった。

時代が変わったからなのか,教育が荒廃したからなのか,いろいろと考えさせられてしまうのである。


(セリフ)ビー玉ベーゴマ 風船ガムに ニッキと
おー えーと それから メンコとおはじきと
あっそうそう 竹とんぼ やったわやった なつかしいなあー

でっかい夕陽を 背中にしょって
影踏み遊びの子供が走る
涙の乾いた頬ほころばせ
明日に向って一直線に

ねぇ君 ぼくはこう想うのさ
人生なんて紙芝居だと
涙も笑顔も続きは明日
時って言う名の自転車こいで
やさしさ紙芝居
そして誰れもが主人公

三角定規を心に当てて
真っすぐ君へと線を引きたい
陸橋渡って君が消えても
あとには確かな絆が残る

ねぇ君 ぼくはこう想うのさ
人生なんて紙芝居だと
白くて大きな愛のぬり絵を
笑いや涙の絵の具で染める

やさしさ紙芝居
そして誰れもが主人公

『約束』渡辺徹

【今日の一枚】
『約束』渡辺徹
1982年8月25日リリース(EPIC・ソニー

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渡辺徹」の2枚目のシングルである。
渡辺徹」の代表曲であり,オリコンチャートでの最高位は2位であるが,TBS系「ザ・ベストテン」では4週連続1位を獲得した。

大学生の頃のヒット曲である。
この曲のヒット当時,「ザ・ベストテン」に初出演した際,曲の冒頭を「小さな夢をくちびるに」と歌い出すところを,「小さな胸にくちびるを」と間違え,そこからはアドリブで“作詞”して歌い切ったというエピソードがあった。

この「ザ・ベストテン」は,リアルタイムで観ていた。
アドリブの歌詞があまりにも違っていたことから,テレビ画面下に出ていた歌詞のテロップは途中で消えたという記憶が残っている。

この歌は,「何でもあり」なのかと思った。
作詞を担当した「大津あきら」に叱られはしないだろうかと余計なことを考えたくらいだ。

後に,「ものまね王座決定戦」で「松村邦洋」が,この歌に滅茶苦茶な替え歌をねじ込んで「渡辺徹」のものまねをしたことがあった。

後に,「ものまね王座決定戦」で「松村邦洋」が,この歌に滅茶苦茶な替え歌をねじ込んで「渡辺徹」のものまねをしたことがあった。

『約束』は,キーがちょうどいいのでカラオケでもよく歌ったものだ。
また,いろいろな話題を振りまいてくれたという意味でも印象に残る一曲となっている。

 

『ゆうべの秘密』小川知子

【今日の一枚】
『ゆうべの秘密』小川知子
1968年2月1日リリース(東芝音楽工業)

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小川知子」のデビューシングルである。
小川知子」の歌手デビューとなったこの曲は,いきなりオリコンチャートで週間1位を獲得するなど,52.9万枚の売上を記録する自身最大のヒット曲となった。この曲で,1968年末の「第19回NHK紅白歌合戦」への初出場を果たした。

小学生の頃のヒット曲である。
小川知子」という歌手を認識したのは随分後のことであるが,テレビから流れるこの曲については,何となくではあるが記憶に残っている。

歌詞の意味など分からず聴いていたに違いないのだが,メロディーが優しい雰囲気なので心地よかったのかも知れない。
手元にあるレコードは親が買ったものである。

1983年9月21日に,『ゆうべの秘密』のカバーが「井上杏美」の2枚目のシングルとしてリリースされたようだが,「井上杏美」の歌う『ゆうべの秘密』を聴いたという記憶は残っていない。

小川知子」は,この後1970年前代に,人気アイドル歌手として有名になるのだが,そのスタートを飾る曲として歴史に残る一曲であると言えよう。

 

『リムジン江』ザ・フォーシュリーク

【今日の一枚】
『リムジン江』ザ・フォーシュリーク
1968年11月25日リリース(young pops)

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「ザ・フォーシュリーク」版の『リムジンガン』(イムジン河)である。

原曲に忠実なメロディ・リズムと,朝鮮総連が指定した「李錦玉」による訳詞(実際には朝鮮総連の傘下団体である在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)の他のメンバーとの合議による)で,「ザ・フォーシュリーク」が『リムジン江』というタイトルでレコードをリリースしたものである。

当時「手売りだけで10万枚」を売り上げたとも「20~30万枚」を売り上げたとも言われている。

「リムジン」と「イムジン」の語頭の違いは,朝鮮語の南北間差異が関係するようだ。

現在の韓国においては,単語の冒頭のR音は,無音化(つまり母音のみ発音)するか,N音として発音される。一方,北朝鮮においては,ハングルの綴り通りにR音で発音される。

要するに「イムジン」と「リムジン」とは「南」と「北」との方言の差異であって,同じ河川の呼称なのである。

「ミューテーション・ファクトリー」版の『イムジン河』は通信販売だったため,現存するレコードは少なく稀少だが,こちらの『リムジン江』はかなりの売り上げがあったということなので現存する数は多い一枚となっている。

 

『イムジン河』ミューテーション・ファクトリー

【今日の一枚】
イムジン河』ミューテーション・ファクトリー
1969年7月(通信販売)リリース(URC

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小学生の頃にリリースされた曲である。
日本で最初のインディーレーベルでもある会員制レコードクラブ「アングラ・レコード・クラブ」の第一弾としてリリースされた。

実は,先にリリースされた「ザ・フォーク・クルセダーズ」の『イムジン河』が,「レコード倫理審査会」の判断で発売中止となったのである。

「リムジン江(朝鮮読み)」で分断された朝鮮半島について歌った内容であったため,当時の「レコード倫理審査会」が,国際親善事項に触れる等の理由から「ザ・フォーク・クルセダーズ」の『イムジン河』を発売中止したのだ。

レコードジャケットにある「ミューテーション・ファクトリー」は,「松山猛」「平沼義男」「芦田雅喜」によるフォークグループで,発売中止となった『イムジン河』を何とか形として残そうと,急遽結成されたグループである。

北山修」をディレクターに迎えて「松山猛」の訳詞,「加藤和彦」の編曲による『イムジン河』を吹き込み,「アングラ・レコード・クラブ(URC)」から会員配布(通信販売)されたもので,もともとの部数が少ないため希少価値のあるレコードである。

1971年7月に市販用シングルが発売された(7インチシングル盤規格品番は配布版・市販1stプレスがURS-0001,市販再発版がURT-0057)で,画像は「URS-0001」のものである。シングルB面は同曲の朝鮮語版(ジャケットでは「リムジンガン」と表記)。

日本のフォークソング史を語るとき,絶対に避けては通れない幻の名曲として歌い継がれていくべき一曲と言える。